「自分のために生きること」は「悪」なのか
「世のため人のために生きなさい」
小さい頃からそう呪文のように唱えられ、生きてきたように思う。
そのせいかわからないが、私は「世のため人のため」に頑張ることが大好きだ。というかむしろ、「自分のためになんか頑張れない。けれど、社会のため、誰かのためにならいくらだって頑張ることができる!」とずっと思ってきたし、今もそう思っている。
けれど、小さい時はそれでよかったが、大人になった今は「世のため人のため"だけ"」に生きることには限界があるのではないかと、気付きはじめた。
できた人は、そんなの当たり前、というかもしれない。
けれど、未熟な私は、最近このことに気付き始めたのだ。
多感な時期である4〜10歳の6年間、私は子役として劇団に通っていた。そんな大役はやったことがないが、ごまんといる子役の中ではそこそこ出演している方で、選抜クラスという劇団の中で行われるオーディションに通過した人しか通えないクラスに所属していた。週6で、演技、歌、ダンス、バレエ、日本舞踊、基礎演習(発声方法や早口言葉など)の授業があり、小学校の友達とは劇団を辞めるまでほとんど遊べなかった。
お芝居は大好きだったが、あまり子役時代にいい思い出はない。オーディションに受かるのは嬉しかったが、他の子役やその母親たちから向けられる嫉妬の眼差しや、いじめの方が辛く、素直に喜べなかった記憶がある。
そして何より、「人の顔色を伺う」「空気を読む」スペシャリストになってしまった。
どういう発言をすれば、大人や周囲の人は喜ぶのか。どういう行動をとれば、必要とされるのか。もう、特段何をしなくても勝手にわかる。顔や行動の端々に、その人の期待や要望を感じ取り、そんな風に振る舞うことができた。逆にやりたいことがあっても、出来ないことや、行動に移さないことが大半だった。
だから私は世に言う「いい子」だったと思う。反抗期もなかったねと母は嬉しそうに言う。けど、そのおかげで私は「世のため人のため"だけ"にしか生きれない人間」になってしまった。
子どものうちはそれでよかった。むしろ誰からも好かれる「いい子」だった。
けれど大人になり、社会に出た今、もうそうやって生きるのはそろそろ限界だと、心が叫び始めた気がしている。
世の中には理不尽なことが沢山ある。「世のため人のため」生きることは当たり前だと思っていたが、「自分のため"だけ"」にしか生きていない人も少なくはないのだと、最近痛感した。
そんな中、「世のため人のため"だけ"」に生きていたら苦しくなるのは当然だ。
また、「世のため人のため」というと聞こえはいいが、要するにそれは、誰か他人に依存して生きているということでもある。自分自身の人生を生きていないのと同じである。それでは、元も子もない。そろそろ「自分のため」に生きることが必要なのかもしれない。
もちろん、「自分のため"だけ"」に生きるのは大変悲しく愚かだし、何よりそれは自分自身が幸せにならないと思う。けれど、ある程度の「自分のため」は、きっと周囲の人のために繋がっていくように思う。
2019年は「自分のため」に生きてみる一年にしたいと、今から少しワクワクしている。
死んだ心は生き返るのか
最近色々なことが重なって、すっかり心が死んでしまった。
毎年この時期は決算と、世の中が浮き足立つクリスマスと、年が終わることへの焦燥感にかられ、心が瀕死状態になることが多いが、今年はついに死んでしまったような気がする。
何というか、糸が切れたというか、心が何も感じなくなった。
26歳となった私の周りは本当に結婚ラッシュで、クリスマスのSNSは「独身最後のクリスマス🍷来年はもう家族だねっ❣️」や、「ママになったから、今年から彼はパパサンタ🎅💕」などといった投稿で溢れかえる。
別に自分は今のところ結婚願望はないのだから、焦りを感じる必要もないけれど、漠然としたモヤモヤを感じるようになった。
母子家庭育ちの私は、普通の家族というものを知らないからこそ、自分の家族が大好きだし、だからこそ自分自身は早く結婚して子どもを産んで、母や祖父母に普通の家庭というものを築いた姿を見せなければならない、というプレッシャーが小さい頃からある。
ただそれと同時に、「好きな人と結婚して、子どもを産んで、お母さんになる。」そんな当たり前で、ありきたりなつまらない人生はごめんだと思っていたような可愛げのない子どもでもあった。けれど、いざそうなりたいと願っても、こんなにも難しいものなのだなと思う。
当たり前の幸せな家庭は、やはり自分には縁遠いものなのだろう。
しかし、これはクリスマスや誕生日など、そういうイベントが近づくと昔からぼんやりと感じていたことである。(「幸せな家庭」とは縁遠いことを再認識させられるので、どうやら自分は家族で祝うイベントものが苦手らしい。)
なので、心が死んだ要因ではない。
私の心が死んだ一番の要因は、やはり会社や、それに紐付く人間関係、その他諸々であろう。
正直自分がそこまで追い詰められている感覚はなかった。休みの日は自分がやりたいことをやっているし、心を許せる人も数は少ないけれど0ではないし、自分は恵まれていると思う。
けれど、周囲の人の期待に応えようとすればするほど、自分の心はすり減っていた。
ある程度自分のためにわがままになりたくても、「そんなのあなたらしくないよ」という他人。「私らしさ」ってなんだ?あなたは私の何を知っているんだ?そう喉まで出かかっても、お人好しの自分は「そうですよね〜」と笑顔で自分の気持ちは押し流してしまう。そんな自分にまた自己嫌悪をする毎日。完全に悪循環だった。
会社でも家でも、自分はどこか「周囲が抱く理想の私」を演じてしまっているのかもしれない。6年間ほど子役をやっていた自分に染み付いた、悲しい性である。染み付いてしまっているので、もはや息を吸うようにそうなる。結局他人のために、自分の人生をすり減らしているのかもしれない。それはもしかしたら、私が憐れむ上司たちよりも悲しい人生かもしれない。
もうクリスマスも終わり、一年の終わりが近づいてきた。こんな心で2018年を終えたくないなぁ。
死んだ心は生き返るのか。
それは正直無理な気がしている。
嬉しいや楽しいもあまり感じなくなってきた。
死んだ心は生き返らない。
けれど、生まれ変わることならば出来るような気がしている。
生まれ変われるかは自分次第。自分を助けてくれるのは、自分しかいない。
2018年もあと少し、もうすこし踠いてみようと思う。
一億総労働マシーンと化した日本人よ、もう一度「アンパンマンのマーチ」を聞くのだ
“何のために生まれて 何をして生きるのか
こたえられないなんて そんなのは いやだ
何が君のしあわせ? 何をして喜ぶ?
わからないままおわる そんなのは いやだ!”
今のサラリーマンで、この問いにこたえられる人間はどのくらいいるのだろうか。
これは「アンパンマンのマーチ」の一節である。
誰もがきっと、子どもの頃見ていたアンパンマン。この歌だって、誰しもが聞いたことがあり、誰しもが歌えるだろう。
しかし、この歌詞の意味を深く考えたことがある人は案外少ないのかもしれない。
私自身はもちろん、この歌の背景には作詞者であるやなせたかし氏が、特攻で亡くなられたやなせ氏の弟のために作られたという説や、この歌にやなせ氏の考える「正義」の意味が詰まっているという説は知っている。
その背景を知り、この歌を聴いてこそ、この歌の本当の意味を感じることができると思う。
だが歌というものは、もちろん背景となる出来事は事実として存在するのだが、聞き手によって意味が無限に広がるものであり、それこそが歌の素晴らしさだと思う。
自分はこの歌によって、何度も励まされてきた。生きることが辛くなったとき、なぜ生きているのかがわからなくなったとき、この歌の歌詞を聞いて、自分を奮い立たせてきた。
覚悟を持って何かを成し遂げようと思う時、この歌の真価がわかる。
辛い時も夢を忘れない。
涙はこぼしてしまうけど、この国のため、まだ見ぬ未来の子どもたちのため、恐れず進まなければならない。
この歌の歌詞の1つ1つを噛み締めながら聞くと、そんな風に思える。
昨日うちの会社のお偉いさんが、「若い人はすぐ辞めてしまう。みんな夢や希望を持って入社してくるからな」と言っていた。
仕事に対して、夢を持ってはいけないのか。将来に希望を持ってはいけないのか。
夢も希望も持てないことを、誰がやりたいと思うのだろうか。
だがきっと、そう言うお偉いさんたちも、昔はきっと同じように夢や希望を持っていたのだと思う。それが会社に搾取され、熱い想いを失い、労働の奴隷と化し、いつしかマシーンになっていく。凄まじい労働時間で拘束し、プライベートを奪うだけでなく、思考する時間や力も蝕んでいく。会社にしか自分の居場所はなくなり、会社での自分が、自分の全てになる。非常によくできた、そしてまた、非常に恐ろしいシステムである。
この悪循環はいつまで続くのだろうか?
この哀れな悲しみの連鎖を断ち切ることは、できないのだろうか。
夢も希望も持てない国で、未来ある者たちは育たない。
一億総労働マシーンと化した日本人よ、もう一度「アンパンマンのマーチ」を聞いてはくれないか。
“何のために生まれて、何のために生きるのか。”
この問いに、あなたはこたえられるか。
今一度、胸に手を当てて考えてみてほしい。
アンパンマンのマーチの歌詞↓↓
http://j-lyric.net/artist/a04df05/l0148a0.html
オススメのアンパンマンのマーチ↓↓
人生は有限だ。何かを成し遂げるにはあまりにも短い。でもだからこそ、生命を掛ける意義がある
私はまだ人の死というモノを知らない。
母子家庭で生まれ育った私は、小さい頃から祖父母と母の4人暮らしで、幸いなことに4人とも大きな病気はしつつも、今も4人とも健在だ。
今日、会社の先輩が亡くなった。
先輩といっても、20個近く上の方だけれど、誰にでも優しく、包容力があって、誰からも好かれる天使のような人だった。
社内結婚をされた旦那さんもかっこよく、とても素敵な営業マンで、誰もが羨む夫婦。娘さんも可愛くて、社内報に引っ張りだこな、誰がどう見ても幸せな家族だった。
そんな先輩が、癌に侵され、1人闘病していることは何となく耳にしていた。姿が見なくなり、心配だけれど触れられない。そんな状況が半年ほど続いた矢先だった。
お見舞いに行けばよかった、もっと色々な話をすればよかった、何か力になりたかった。今更悔やんでも遅いのだけれど、走馬灯のようにそんな想いが訃報を聞いたその時からずっとぐるぐると回っている。
私の祖母も昨年大腸癌に侵され、10時間に及ぶ手術を行った。助かるかはわからない。手術は賭けだった。祖母に育てられたも同然な私は、初めて人の生命というものと向き合った。手術中は実感が湧かなかったが、手術が終わり祖母の無事を感じた時、私は声を上げて泣いていた。25歳になっていたが、愛する人の死を受け入れられる自信はその時も、26歳になった今もない。
先輩の娘さんはまだ小学生だったはずだ。母の死を、彼女はどう受け止めるのだろうか。私は母子家庭という要因もあるが、自分のお母さんが大好きで、今も友達に相談できないようなこともなんでも話せる。世界中が敵に感じる時も、母だけは味方になってくれる自信がある。それくらい掛け替えのない存在だ。
まだお母さんから聞きたかったこと、たくさんあるだろうな。お母さんにたくさん甘えたかっただろうな。お母さんにたくさん恩返ししたかっただろうな。お母さんに自分がお嫁さんになる姿、母になる姿見せたかっただろうな。そう思うと涙が勝手にあふれてしまう。
娘さんや旦那さんの気持ちを思うと、苦しくて仕方ない。しかし同時に、先輩の死というものに直面して、自分の人生というものの有限さを改めて認識した。
人生は有限だ。何かを成し遂げるにはあまりにも短い。でも、だからこそ自分の生命を捧げるに値することに出会えたなら、自分自身の精一杯を尽くさなければならないのだと思う。
ただ、そんなものに出会えるのはごく一部の人である。それは本当に幸福なことで、だからこそ決して信念を曲げてはいけないのだ。
先輩の死に直面し、生命と人生の価値を改めて思い知った。他者の死によって、自己の生命の存在を改めて感じる。死とは生の条件なのかもしれない。
先輩のご冥福を心からお祈り致します。
「会社のために」が合言葉。部下の人生を食いつぶすバケモノ上司たち
こんな世の中は狂っている。バケモノたちの巣窟だ。
日系大手ゼネコン企業に総合職として入社し早5年弱。同期は100人ほどいたが、同じ職種の女性は自分を入れてわずか2名だった。そのもう1名は今冬結婚して、彼が転勤になったらついていく(退職する)らしい。
私はこの仕事が大好きだ。誇りを持って5年弱という短い時間だけれども働いてきた。けれど、いや好きだからこそ、もう何のために頑張っているのかわからなくなってきた。
「会社のために」社内の事情はよく知っておいた方がいい。だから昼間はつまらない社内の噂話に時間が消費される。
「会社のために」お客様の接待の時は女の子が必要なんだ。だから夜はコンパニオン代わりの飲み会に毎日のように追われる。
「会社のために」下積み時代は上司の何倍も働かなければならない。だから土日は上司の分の仕事をするために仕事に行く。
ミスをすれば飲み会ばかり行っているせいだと言われ、恋人がいないといえば仕事ばかりしているからだと言われ。しまいには25歳を過ぎても結婚の気配がなければ奇人変人扱い。
会社の不効率や不条理に声を上げれば厄介者と見なされ、社外との交流で気づいた新しい視点を話せば煙たがられる。
好きな会社、好きな仕事だからより良くしたいと、自分の考えを発するよりも、お金のかからないコンパニオンに徹した方が有り難がられるのか。
自分の考えを持たず、ただひたすら処理をするマシーンのように働くことが正解なのか。
自分自身の人生を生きることは許されないのか。
「価値や魅力を感じた仕事を通して、社会をより良くしたい」ただ、それだけなのに、何故こんなにも難しいのか。
自分の意志を持ち、働くことはいけないことなのか。
息を吸うだけで何もしない先輩社員。朝から晩までネットサーフィン。けれど年功序列制。給料は私の何倍だろう?
「下積み時代を耐え抜きさえすれば、何もしなくても給料が上がる」と自慢げに語る上司たち。たった一度きりの自分自身の人生、本当にそれでいいの?
「生きるためのお金を稼ぐ作業」と仕事を割り切れれば、それでいいのかもしれない。けれど、私は自分の仕事に社会的意義があると誇りを持っていた。それは間違っていたのだろうか?
今の日本のサラリーマンの多くは、人生の時間の大半を仕事に捧げている。会社と家の往復で毎日が過ぎていく。
彼らが誇るのは、仕事を通して何を成し遂げたかではなく、日々の労働時間。右を見ても左を見ても、労働時間の多さを自慢しあっている。
彼らは、本来自分自身の人生を生きるために使うことができる時間を「会社のために」生きた結果、部下に自分と同じ生き方を強制するバケモノになってしまった。
今私たちを苦しめるバケモノは、「会社のために」という大義名分を振りかざされ、人生を食いつぶされてしまった哀れな者たちの成れの果てなのかもしれない。
しかし、そんな彼らに同情はするが、この現状を見過ごすことはできない。
それは若者たちがメンタルを病み、鬱となる原因がここにあるからだ。
自分自身の人生を歩みたくても、上司と同じ様な(しかもつまらない)人生を強制される。そんな人生を生きる意味はあるのだろうか。「死んでいるように生きるのならば、いっそのこと楽になりたい」そう言って、自ら命を絶ってしまう若者もいる。
では、昔はメンタルを病む者が少なかったのに、何故今の若者は病んでしまうのか。
それは、昔は「その道しかなかった」からではなかろうか。上司と同じ人生を歩むことしか見えない、選択肢のない、盲目的な狭い世の中だったからではなかろうか。
でも、今は違う。SNSが発達し、世界はグローバル化し、人生の選択肢は無限となった。人間は他者との比較によって、己の生き方が規定されていく生き物である。目の前の狭い世界で生きている上司の生き方に、違和感や疑問を抱くのは至極当たり前のことだ。
しかし、その考えを発したら最後、「お前は間違っている」「頭がおかしい」の大合唱。外の世界を見えなくするために、増やされる一方のタスクと労働時間。忙殺される日々に心と頭は切り離され、メンタルは病んでいく。こんな世の中に未来はあるのだろうか。
もう一度言う、何度だって言う、こんな世の中は狂っている。
バケモノたちの餌食になるな。次のバケモノになるのは自分だ。そうなる前に目を醒ませ。