emorin1857’s diary

今の世の中に憤りを感じるサラリーマン(女)の心の叫び

「自分のために生きること」は「悪」なのか

 


「世のため人のために生きなさい」

 


小さい頃からそう呪文のように唱えられ、生きてきたように思う。


そのせいかわからないが、私は「世のため人のため」に頑張ることが大好きだ。というかむしろ、「自分のためになんか頑張れない。けれど、社会のため、誰かのためにならいくらだって頑張ることができる!」とずっと思ってきたし、今もそう思っている。


けれど、小さい時はそれでよかったが、大人になった今は「世のため人のため"だけ"」に生きることには限界があるのではないかと、気付きはじめた。


できた人は、そんなの当たり前、というかもしれない。
けれど、未熟な私は、最近このことに気付き始めたのだ。


多感な時期である4〜10歳の6年間、私は子役として劇団に通っていた。そんな大役はやったことがないが、ごまんといる子役の中ではそこそこ出演している方で、選抜クラスという劇団の中で行われるオーディションに通過した人しか通えないクラスに所属していた。週6で、演技、歌、ダンス、バレエ、日本舞踊、基礎演習(発声方法や早口言葉など)の授業があり、小学校の友達とは劇団を辞めるまでほとんど遊べなかった。


お芝居は大好きだったが、あまり子役時代にいい思い出はない。オーディションに受かるのは嬉しかったが、他の子役やその母親たちから向けられる嫉妬の眼差しや、いじめの方が辛く、素直に喜べなかった記憶がある。 


そして何より、「人の顔色を伺う」「空気を読む」スペシャリストになってしまった。
どういう発言をすれば、大人や周囲の人は喜ぶのか。どういう行動をとれば、必要とされるのか。もう、特段何をしなくても勝手にわかる。顔や行動の端々に、その人の期待や要望を感じ取り、そんな風に振る舞うことができた。逆にやりたいことがあっても、出来ないことや、行動に移さないことが大半だった。


だから私は世に言う「いい子」だったと思う。反抗期もなかったねと母は嬉しそうに言う。けど、そのおかげで私は「世のため人のため"だけ"にしか生きれない人間」になってしまった。
子どものうちはそれでよかった。むしろ誰からも好かれる「いい子」だった。
けれど大人になり、社会に出た今、もうそうやって生きるのはそろそろ限界だと、心が叫び始めた気がしている。


世の中には理不尽なことが沢山ある。「世のため人のため」生きることは当たり前だと思っていたが、「自分のため"だけ"」にしか生きていない人も少なくはないのだと、最近痛感した。
そんな中、「世のため人のため"だけ"」に生きていたら苦しくなるのは当然だ。


また、「世のため人のため」というと聞こえはいいが、要するにそれは、誰か他人に依存して生きているということでもある。自分自身の人生を生きていないのと同じである。それでは、元も子もない。そろそろ「自分のため」に生きることが必要なのかもしれない。


もちろん、「自分のため"だけ"」に生きるのは大変悲しく愚かだし、何よりそれは自分自身が幸せにならないと思う。けれど、ある程度の「自分のため」は、きっと周囲の人のために繋がっていくように思う。


2019年は「自分のため」に生きてみる一年にしたいと、今から少しワクワクしている。